仏教では、その教えが誕生した当初、仏像は存在していなかったことをご存じでしょうか?
お釈迦様自身が偶像の崇拝を禁じていたことも知られています。なぜなら人間は、目に見えるものに執着してしまう傾向があるとの考えがあったからのようです。仏教の考え方では「執着=煩悩」であって、執着を捨てることこそが悟りに近づくための道であると考えていました。釈迦自身の偶像を作ってしまうと、目に見えない教えを守ることよりも、偶像をただ拝むだけになってしまうことを危惧していたからです。
しかし釈迦が亡くなった後、仏教を継承するためにはやはり何かしらの形として残す必要があると弟子たちは考えました。そこで経典を作り、釈迦に関連するシンボルを図像化していったようです。釈迦の遺骨を祀った仏塔、煩悩を砕き悟りに導くための武器を模した法輪、釈迦が悟りを得た場所にちなんだ菩提樹、歩いて布教をしていたことから足跡を聖なるものとした仏足などが初期段階のシンボルでした。その後、紀元後1年頃、仏像が造られるようになりました。北西インドにあるガンダーラ地方と、北インドにあるマトゥラー地方(現在のパキスタン)の2カ所でほぼ同時期に仏像が造像されていたことがわかっています。
また、「執着する心から離れよ」という意味で「所有すること」を制限したはずの仏教ですが、仏像を祀ったり、墓石にこだわったり、経済的な負担を強いられながらもお墓を守ろうと躍起となっているような現在の仏教のあり方は、初期の仏教とはだいぶ違っているようにも感じてしまいます。このように、初期段階の仏教は宗教というより高度な哲学的真理を探求する哲学であったようです。
ただ、辛い現実から救われたいと必死だった民衆は、より具体的で視覚的な礼拝対象を求めたことも事実でした。日本に伝来した仏教が日本古来の神道を圧する勢いで受け入れられたのも仏像や仏画の存在が大きいと考えられます。素朴な信仰に生きていた日本人には、きらびやかな仏像の存在に大きな衝撃を与えたのでしょう。それまで日本には、山の神や海の神など自然に対する畏敬の念がそのまま信仰対象となっていて、死後の世界観についての見解も曖昧であったようです。神道では、「八百万の神」と称され、万物に魂が宿るという考え方は、いつの間にか仏教の考え方も取り込んでしまい、現在のように仏教と神道が融合されていったようです。
キリスト教でも、偶像崇拝はもともと禁止されていたようですが、カトリック教会にはイエス像やマリア像があります。十字架はシンボルなのだから、偶像ではないという意見もありますが・・・(正直、どうでもいいです。正しさは一つとは限りません。色々な考えがあっていいのだと思います。)それ以外に、イスラム教でも、ユダヤ教でも偶像崇拝は禁止されています。世界の賢者たちは心のあり方を説き、あるべき姿を説いたにもかかわらず、その価値観を普及することが正義であるとの名のもとに、シンボルを作り出していったようです。民衆の心をつかむために、教えをねじ曲げてまで、宗教を普及したかった理由はいったい何だったのでしょうか?私のようなものには当然わかりません。
★「散骨山」では、墓石を建てたり、モニュメントを設置したりすることはできません。理由は墓地埋葬法の規定によるものですから、ご理解ください。自然と一体になっていただいて、故人と遺族が心でつながることができる場所としてご理解いただけたら幸いです。 |