自分でできるDIY散骨ガイド:花さかじいさんのポータルサイト
 
chapter01 chapter02 chapter03 chapter04 chapter05 chapter06 chapter07 chapter08 chapter09 chapter10
 
●トップページチャプター03:散骨は古代日本で行われていた弔いの方法
 
 
散骨は古代から日本で行われてきた弔いの方法
 
 
★散骨は古代日本で行われていた弔いの方法

 
 
 
chapter03
日本におけるお墓のはじまり
日本では大昔からあった散骨
淳和天皇が山に散骨された話
最初に火葬されたのは持統天皇
万葉集に残る散骨の詩
消滅した副葬品の埋葬文化
散骨が衰退したのは江戸時代
縄文時代の弔い方
弥生時代の弔い方
古墳時代の弔い方
飛鳥時代の弔い方
奈良~平安時代の弔い方
鎌倉室町戦国安土桃山時代の弔い方
江戸時代の弔い方
明治~大正時代の弔い方
A級戦犯海洋散骨の意味
 
chapter03
 
 
 
自分でできるDIY散骨ガイド:花さかじいさんのポータルサイト
 
散骨は、決して新しい葬送方法ではありません。古代の日本でも行われていた伝統的な弔いの方法です。その歴史は古代の日本にまで遡ります。私たちが当たり前だと思っていたお墓のあり方は数百年の政治的方針によるものでした。
 
 
 

 
 
日本におけるお墓のはじまり
【日本におけるお墓のはじまり】
お墓とは、亡くなった人の体や骨を納める場所や建造物のことをいいます。日本から昔からあるお墓に古墳があります。古墳は土を高く積み上げることによって造られた建造物で、西暦250年頃から600年代頃まで作られていました。その当時作られた古墳は、現在残っているだけでも16万基以上あり、多くの権力者たちがこぞって建造に力を入れていたことがわかります。一番大きな古墳は、大阪にある仁徳天皇陵古墳でしょう。権力者たちは、その大きさや細部にまで・・・
⇒続きを読む
 
 

 
 
日本では大昔からあった散骨
【日本では大昔からあった散骨】

「散骨」は、新しい供養方法と思われがちですが、実は、その歴史は日本の奈良時代にまで遡ります。「山に遺骨を撒く」という葬送方法は、まさに「死んだら土に還る」の言葉通りに、自然に還る最もシンプルな方法であって、むしろ現代のようにお墓に埋葬するというやり方のほうが新しいものであったのです。「散骨」は、仏教が生まれたインドが発祥地といわれ、実は昔から行われてきた供養方法なのです。インドから仏教の伝来と共に日本に上陸しました。散骨・・・

⇒続きを読む
 
 

 
 
淳和天皇が山に散骨された話
【淳和天皇が山に散骨された話】

平安時代の歴史書『続日本後記』(巻第九)には、840年に崩御した淳和天皇(上皇)は生前から散骨を希望され、火葬した上で大原野の西山の山頂に散骨されたという記録が残っています。淳和天皇(上皇)の命により遺体は火葬された上、大原野の西山(京都府京都市西京区大原野南春日町)の山頂で散骨されたとなっています。死を目前にした淳和天皇(在位823〜833年)は皇太子の恒貞親王に、「本来自分は飾り立てることを好まない。人や物に迷惑をかけたり・・・

⇒続きを読む
 
 

 
 
最初に火葬された天皇は持統天皇
【最初に火葬された天皇は持統天皇】

持統天皇(645-702、享年58歳)は最初に火葬された天皇です。皇室史上3人目の女性天皇です。父は大化の改新を実行した中大兄皇子。律令を制定し、戸籍を整備し、本格的な都を造営するなど、我が国の政治の礎を築かれた天皇です。「藤原京」へ遷都をし、701年の大宝律令は、我が国初の本格的な法典でした。遺詔には、「素服、哀を挙げることなく、文武官の釐務(りむ)は常の如くにし、喪葬の事は専ら倹約に従わしむ」とあります。天皇の喪葬で、倹約の遺詔を出した・・・

⇒続きを読む
 
 

 
 
万葉集に残る散骨の詩
【万葉集に残る散骨の詩】

古くから日本で散骨が行われていたことを示すものに、万葉集の中に和歌があります。「万葉集」の和歌には、散骨した際の心情が美しく詠まれています。(玉梓の妹は玉かもあしひきの清き山辺に撒けば散りぬる)(玉梓の妹は花かもあしひきのこの山蔭に撒けば失せぬる)この読人不知歌は、妻の遺骨を散骨した際の心情が詠まれています。「愛しい妻は玉(宝石)になったのだろうか、花になったのだろうか、清い山・山陰に撒いたら消え散っていく」と歌われており・・・

⇒続きを読む
 
 

 
 
消滅した副葬品の埋葬文化
【消滅した副葬品の埋葬文化】

副葬品は、故人様への「最期の贈り物」です。現代では棺の中に遺体と一緒に入れて火葬する品物を副葬品と呼ぶことが多いですが、古墳から数千年前の副葬品が見つかったという話も聞いたことがあるのではないでしょうか。副葬品は、死者を弔う上で、あるいはあちらの世界でやっていくのに必要だと考えられて、共に埋葬された物品です。単なるモノではなく、そこには故人を慕う人達の思いがたくさん込められています。 そこには愛情を感じることができます。・・・

⇒続きを読む
 
 

 
 
散骨が衰退したのは江戸時代のこと
【散骨が衰退したのは江戸時代のこと】

日本で奈良時代以降、一般的に行われていた「散骨」が、徐々に行われなくなっていった理由は、江戸幕府の宗教統制政策として行われた檀家制度によるものが大きいと考えられています。檀家制度によって葬祭供養の一切はそれぞれが属する寺院が執り行うものとなり、常日頃からの参拝や法要などが義務化され寺院の権限が強化される中で、石造りのお墓に納骨をするという方式が定着していきました。お盆やお彼岸その他の法要などの行事が確立していった ・・・

⇒続きを読む
 
 

 
 
縄文時代の弔い方
【縄文時代の弔い方】

縄文時代には、屈葬が行われていました。身体を曲げた状態で埋葬するやり方です。屈葬は一部のアフリカの地域を除いて、日本以外ではあまり見られない独特なスタイルです。屈葬は「胎児と同じような体勢をとらせることで死者の復活を願ったもの」と言われています。他にも、墓穴を掘る労力を少なくするためという説もあります。屈葬されている遺体の中には石を抱いていたり縛られたりしている遺体が多いことから、「死者の霊が浮遊しないように身体を曲・・・

⇒続きを読む
 
 

 
 
弥生時代の弔い方
【弥生時代の弔い方】

弥生時代は、大陸から渡来人が日本列島に移り住み、定住するようになった時代です。弥生時代には、木でできた棺に人を葬る習慣が朝鮮半島から伝わり、遺体を木の棺に納める墓(木棺墓)が現れるようになります。屈葬は見られなくなり、身体を伸ばして埋葬する伸展葬が行われるようになります。弥生時代には、大陸から違った文化が流入し、稲作も盛んになったことから、土地の奪い合いも同時に多発するようになったと考えられています。縄文時代のように・・・

⇒続きを読む
 
 

 
 
古墳時代の弔い方
【古墳時代の弔い方】

古墳時代には、弥生時代よりもさらに古墳が巨大化します。権力者のパワーが炸裂した時代です。古墳時代は、日本で盛んに古墳が造られた3世紀から7世紀ごろまでのおよそ350年間をさします。弥生時代と飛鳥時代の間に当たり、日本の古代国家の原型がこの時代にできあがったと考えられています。古墳には前方後方墳、円墳、方墳、帆立貝式古墳などさまざまな形があり、日本には約16万もの古墳があるとも言われています。特に巨大な前方後円墳は、現在の奈良県や大阪府・・・

⇒続きを読む
 
 

 
 
飛鳥時代の弔い方
【飛鳥時代の弔い方】

推古天皇が即位した593年から、平城京へ遷都した710年までの時代を「飛鳥時代」と呼びます。 仏教伝来に伴って、様々な文化や政策や考え方が日本に伝わったことで、日本が大きく変わった時代です。日本という国が天皇を中心とする律令国家を目指し、政策を推し進めたのも飛鳥時代でした。古墳時代の末期と飛鳥時代初期は年代がかぶっていて、飛鳥時代でも古墳は作られているものの、葬儀文化において大きな変化が起こっています。推古天皇の摂政として、十七条憲法・・・

⇒続きを読む
 
 

 
 
奈良~平安時代の弔い方
【奈良~平安時代の弔い方】

奈良・平安時代のお墓や埋葬についてはあまり解明されていません。ただ、わかっているのは、奈良時代に入って、平城京(奈良の都)の内側に墓を作ることが禁止されたことです。ですから、平城京の内側には当時の墓は発見されていません。平安時代に入ってもこの基本方針は変わらなかったようで、天皇や貴族といった特権階級の墓であっても平城京の外に作られました。庶民の墓は飛鳥時代と同じく一定の場所が設けられていて、そこに埋葬するように定められていました・・・

⇒続きを読む
 
 

 
 
鎌倉~室町~戦国~安土桃山時代の弔い方
【鎌倉~室町~戦国~安土桃山時代の弔い方】

鎌倉時代は、革新的な新仏教が一斉に起こった時代です。仏教は、それまでの主に貴族などの特権階級の信仰であったが、鎌倉時代になると、新興階級である武士、さらに庶民も信仰するようになります。解釈やニュアンスを変えて、より実生活や地域に根付いた仏教に進化発展し、後に鎌倉仏教と呼ばれるようになります。従来の貴族を対象とした経典の研究や鎮護国家の思想から、より個人の悟りや社会の救済を目指した信仰として深まります。鎌倉時代には、法然・親鸞・日蓮・栄西・道元・一遍・・・

⇒続きを読む
 
 

 
 
江戸時代の弔い方
【江戸時代の弔い方】

江戸時代には再び土葬がメインになります。それには、江戸幕府の封建支配のために朱子学を重んじたことが原因と考えられます。江戸時代は、儒教の隆盛期であったことも知られています。江戸幕府は、儒教の教えを天下統治の普遍原理にして全国にくまなく徹底したことが知られています。江戸時代の封建制度は儒教の教えを中核にして形成されたものです。儒教を宗教としてではなく、考え方の規範や道徳として捉えたものを儒学と言いますが、その儒学の中の一派が朱子学・・・

⇒続きを読む
 
 

 
 
明治~大正時代の弔い方
【明治~大正時代の弔い方】

明治維新によって生まれた新しい政府は、仏教の排斥とキリスト教の普及を目的として自葬祭の禁止を打ち出しました。しかし、土葬用の土地が足りなくなっったことや、火葬再開を望む声が多かったことで、火葬禁止令はわずか2年ほどで撤回されることになり、土葬と火葬が並行して行われるようになります。表向きには、神道の推奨も目的だったとされていますが、新体制を確立するために、天皇を中心とした支配体制を残す方が有効と考えての方針であったようです。この自葬祭禁止令によって、明治3年に全ての寺院墓地が国有地となり、家族が自分たちで葬儀を行うことさえも禁止されました。 葬儀は全て・・・

⇒続きを読む
 
 

 
 
A級戦犯海洋散骨の意味
【A級戦犯海洋散骨の意味】

第2次世界大戦後の極東軍事裁判。いわゆる東京裁判では、太平洋戦争開戦時の首相であった東条英機元首相(1884年12月30日~1948年12月23日)ら7人のA級戦犯が死刑判決を受けましたが、遺骨は遺族に返還されず、どのように処理されたのか、長い間詳細は分かっていませんでした。日本大学の高沢弘明専任講師がアメリカの国立公文書館で入手した公文書は、死刑執行に立ち会った将校が記したもので、「遺体の火葬後、遺骨を横浜の東およそ30マイル(48㎞)の太平洋上空から広範囲に散骨した」などと具体的な経緯が書かれています。マッカーサーの命令を伝える書簡に書かれていたのは・・・

⇒続きを読む
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
散骨山 さんこつやま
 
 

 
 
葉山の谷戸へ山林散骨

【葉山の谷戸へ山林散骨】

葉山の散骨場所は、住宅街から、すぐそばまで車で乗り入れできます。山と山に挟まれた扇状の台地を「谷戸」と言いますが、住宅地のドン突きに位置しており、そこから奥に入っていくと原生林が広がっています。取り囲む山が風を遮りますから、強風が吹き荒れることもなく、いつも穏やかな雰囲気があります。手つかずの自然林が広がる散骨場所は、森戸海岸までも、徒歩で歩ける距離ですが、奥まっているため、人が訪れることもほぼありません。近くには、絶景スポットとしても有名な「あじさい公園」があり、葉山の海や街が一望できます。夕日がとっても美しく瞬間を独り占めできます・・・
⇒外部リンクページを開く
 
 

 
 
横須賀の林へ山林散骨
【横須賀の林へ山林散骨】
【横須賀の散骨自然葬】は、「山林に散骨する永代供養の自然葬」になります。【合同散骨代行プラン】では、ご遺骨をお預かりさせていただき、弊社で責任をもって山林散骨をさせていただきます。【個別散骨代行プラン】では、遺影写真とご遺骨をお預かりさせていただき散骨を弊社にて行わせていただき、後日写真で散骨の様子をご確認いただくプランです。【立ち合い散骨プラン】は日時を設定してご遺族さまにお立合いいただいて散骨セレモニーを執り行うプランです。【立ち会い散骨プラン】の場合には、その後のお参りも自由にしていただくことができますから、一般墓のような感覚でご利用いただく・・・
⇒外部リンクページを開く
 
 

 
 
逗子の森へ山林散骨
【逗子の森へ山林散骨】
江ノ島や富士山が望める風光明媚な見晴らしの良い散骨スポットです。軽く登山する感覚で現地にたどり着きます。住宅地を抜けてから山道を30分ほどかけてたどり着く場所になります。ハイキングのお好きな方にはおすすめできますが、山歩きに慣れていない方にはあまりお勧めできません。こちらの絶景スポットは、風通しもよく林の中に日差しが木漏れ日となって降り注ぎます。カラっとした健康的なエリアで薄気味悪さやじめっとした感覚は全くありません。絶景が望めるだけあって近くにハイキングコースがありますが、ほとんど人が通りませんので、とても静かで、風の音くらいしか・・・
⇒外部リンクページを開く
 
 

 
 
大磯の山へ山林散骨
【大磯の山へ山林散骨】
大磯は、神奈川県の中央南部に位置しており、南に相模湾、北に高麗山や鷹取山をはじめとした丘陸地帯が広がっています。気候は海岸沿いに流れる暖流の影響で温暖で、避暑地かつ避寒地として1年を通して過ごしやすい環境が特徴のエリアです。大磯は、明治中期から昭和初期にかけて、要人の避暑・避寒地として邸宅や別荘が多く建てられ、伊藤博文、吉田茂をはじめ、山縣有朋、西園寺公望、大隈重信、陸奥宗光、岩崎弥之助、安田善次郎といった政財界の要人の別荘が立ち並んだ土地です。現在も、高級別荘地が存在している大磯ですが、国道1号を初め、JR東海道本線、西湘バイパス、国道134号、小田原厚木道路(国道271号)・・・
⇒外部リンクページを開く
 
 

 
 
小田原の森へ山林散骨
【小田原の森へ山林散骨】
小田原市の散骨スポットは、入生田エリアにあります。入生田は箱根登山電車の駅ですが、JRの湘南新宿ラインで小田原から乗り継いだり、小田急ロマンスカーで周小田原から乗り継ぐことで、都心からアクセスに便利なスポットであると言えます。新宿駅からの所要時間は2時間から2時間半かかりますので、ちょっとした小旅行になりますが、十分に日帰りで墓参のできる場所と言えます。周辺には神奈川県立生命の星・地球博物館や神奈川県温泉地学研究所など研究・展示施設のほか、展望の良い石垣山一夜城歴史公園があります。そのほか、武家・華族だった小田原藩主稲葉一族の墓所や、3代将軍徳川家光の乳母であった春日局・・・
⇒外部リンクページを開く
 
 

 
 
箱根の森へ山林散骨
【箱根の森へ山林散骨】
観光地として名高い箱根ですが、関東有数の観光地としているのには、いくつもの理由があります。温泉や美術館、博物館だけでなく、箱根関所や箱根神社など、歴史が感じられるスポットもあります。箱根の商店街には、明治時代からあるような重厚感のある建物があったり、レトロな和洋折衷の建物があったり、街並み自体に趣があります。おいしいグルメも多く立ち並び、箱根観光はなかなか1日では回り切れないほどの観光スポットがあります。箱根は周囲を山々に囲まれた地形で、四季ごとにそれぞれ違った自然の景色を見せてくれるのも魅力的です。散骨スポットのある大平台エリアは、箱根登山鉄道沿線のアジサイ・・・
⇒外部リンクページを開く
 
 

 
 
横浜の森へ山林散骨
【横浜の森へ山林散骨】
横浜の戸塚エリアにある散骨スポットは、東京都内からのアクセスが便利ですから、いつでも気軽に墓参ができます。横浜という土地は、住宅街が広がる中にポツンポツンと小高い山が点在するのが特徴ですが、こちらの散骨スポットも、周りの住宅地を小高い丘から眺める感覚の場所です。電車を降りてからバスを乗り継ぐことで現地に到着するのですが、住宅地からつながる階段を上ると別天地へとつながっています。こちらのスポットは、手つかずの自然林で、散骨スポットとは・・・
⇒外部リンクページを開く
 
 

 
 
相模湾の海へ海洋散骨
【相模湾の海へ海洋散骨】
日本で最も有名な観光地として知られる「湘南の海」に散骨する海洋散骨です。湘南近辺に広がる相模湾には、多くの有名人も散骨されています。石原裕次郎さん、石原慎太郎さん、沢村貞子さん、いずみたくさん、深浦加奈子さんなど、たくさんの有名人・著名人が散骨されています。湘南の海には、本人の希望で散骨された場合が多く、今後ますます盛んになると考えられています。海洋散骨は、特に海が大好きだった故人を弔う場合が多く、細かいパウダー状になったご遺骨は、海流に乗って世界中を旅することになります。少し寂しい感じがしますが、新たな旅立ちとして故人を見送ってあげると考えて海に散骨する・・・
⇒外部リンクページを開く
 
 

 
 
東京湾の海へ海洋散骨
【東京湾の海へ海洋散骨】
歴史的にも散骨スポットとして実績があるのが東京湾です。東条英機氏など太平洋戦争の英霊たちが眠っているのも東京湾です。温暖な気候で知られる三浦半島の沖合で散骨するプランです。有名人では2010年に芸能リポーターの梨本勝さんが東京湾に散骨されたことはよく知られています。海が好きだったらしく、クルーザーも所有されていたそうです。海洋散骨は、特に海が大好きだった故人を弔う場合が多く、細かいパウダー状になったご遺骨は、海流に乗って世界中を旅することになります。少し寂しい感じがしますが、新たな旅立ちとして故人を見送ってあげると考えて海に散骨するケースが多いようです。弊社の海洋散骨は、夜の・・・
⇒外部リンクページを開く
 
 

 
 
 
 
chapter01 chapter02 chapter03 chapter04 chapter05 chapter06 chapter07 chapter08 chapter09 chapter10
 
自分でできるDIY散骨ガイド:花さかじいさんのポータルサイト
【自分でできるDIY散骨ガイド】
花さかじいさんの自然葬情報ポータルサイト

Copyright (C)【HANASAKAJISAN】2024-