「散骨」は、新しい供養方法と思われがちですが、実は、その歴史は日本の奈良時代にまで遡ります。「山に遺骨を撒く」という葬送方法は、まさに「死んだら土に還る」の言葉通りに、自然に還る最もシンプルな方法であって、むしろ現代のようにお墓に埋葬するというやり方のほうが新しいものであったのです。「散骨」は、仏教が生まれたインドが発祥地といわれ、実は昔から行われてきた供養方法なのです。インドから仏教の伝来と共に日本に上陸しました。散骨・・・
平安時代の歴史書『続日本後記』(巻第九)には、840年に崩御した淳和天皇(上皇)は生前から散骨を希望され、火葬した上で大原野の西山の山頂に散骨されたという記録が残っています。淳和天皇(上皇)の命により遺体は火葬された上、大原野の西山(京都府京都市西京区大原野南春日町)の山頂で散骨されたとなっています。死を目前にした淳和天皇(在位823〜833年)は皇太子の恒貞親王に、「本来自分は飾り立てることを好まない。人や物に迷惑をかけたり・・・
持統天皇(645-702、享年58歳)は最初に火葬された天皇です。皇室史上3人目の女性天皇です。父は大化の改新を実行した中大兄皇子。律令を制定し、戸籍を整備し、本格的な都を造営するなど、我が国の政治の礎を築かれた天皇です。「藤原京」へ遷都をし、701年の大宝律令は、我が国初の本格的な法典でした。遺詔には、「素服、哀を挙げることなく、文武官の釐務(りむ)は常の如くにし、喪葬の事は専ら倹約に従わしむ」とあります。天皇の喪葬で、倹約の遺詔を出した・・・
古くから日本で散骨が行われていたことを示すものに、万葉集の中に和歌があります。「万葉集」の和歌には、散骨した際の心情が美しく詠まれています。(玉梓の妹は玉かもあしひきの清き山辺に撒けば散りぬる)(玉梓の妹は花かもあしひきのこの山蔭に撒けば失せぬる)この読人不知歌は、妻の遺骨を散骨した際の心情が詠まれています。「愛しい妻は玉(宝石)になったのだろうか、花になったのだろうか、清い山・山陰に撒いたら消え散っていく」と歌われており・・・
副葬品は、故人様への「最期の贈り物」です。現代では棺の中に遺体と一緒に入れて火葬する品物を副葬品と呼ぶことが多いですが、古墳から数千年前の副葬品が見つかったという話も聞いたことがあるのではないでしょうか。副葬品は、死者を弔う上で、あるいはあちらの世界でやっていくのに必要だと考えられて、共に埋葬された物品です。単なるモノではなく、そこには故人を慕う人達の思いがたくさん込められています。 そこには愛情を感じることができます。・・・
日本で奈良時代以降、一般的に行われていた「散骨」が、徐々に行われなくなっていった理由は、江戸幕府の宗教統制政策として行われた檀家制度によるものが大きいと考えられています。檀家制度によって葬祭供養の一切はそれぞれが属する寺院が執り行うものとなり、常日頃からの参拝や法要などが義務化され寺院の権限が強化される中で、石造りのお墓に納骨をするという方式が定着していきました。お盆やお彼岸その他の法要などの行事が確立していった ・・・
縄文時代には、屈葬が行われていました。身体を曲げた状態で埋葬するやり方です。屈葬は一部のアフリカの地域を除いて、日本以外ではあまり見られない独特なスタイルです。屈葬は「胎児と同じような体勢をとらせることで死者の復活を願ったもの」と言われています。他にも、墓穴を掘る労力を少なくするためという説もあります。屈葬されている遺体の中には石を抱いていたり縛られたりしている遺体が多いことから、「死者の霊が浮遊しないように身体を曲・・・
弥生時代は、大陸から渡来人が日本列島に移り住み、定住するようになった時代です。弥生時代には、木でできた棺に人を葬る習慣が朝鮮半島から伝わり、遺体を木の棺に納める墓(木棺墓)が現れるようになります。屈葬は見られなくなり、身体を伸ばして埋葬する伸展葬が行われるようになります。弥生時代には、大陸から違った文化が流入し、稲作も盛んになったことから、土地の奪い合いも同時に多発するようになったと考えられています。縄文時代のように・・・
古墳時代には、弥生時代よりもさらに古墳が巨大化します。権力者のパワーが炸裂した時代です。古墳時代は、日本で盛んに古墳が造られた3世紀から7世紀ごろまでのおよそ350年間をさします。弥生時代と飛鳥時代の間に当たり、日本の古代国家の原型がこの時代にできあがったと考えられています。古墳には前方後方墳、円墳、方墳、帆立貝式古墳などさまざまな形があり、日本には約16万もの古墳があるとも言われています。特に巨大な前方後円墳は、現在の奈良県や大阪府・・・
推古天皇が即位した593年から、平城京へ遷都した710年までの時代を「飛鳥時代」と呼びます。 仏教伝来に伴って、様々な文化や政策や考え方が日本に伝わったことで、日本が大きく変わった時代です。日本という国が天皇を中心とする律令国家を目指し、政策を推し進めたのも飛鳥時代でした。古墳時代の末期と飛鳥時代初期は年代がかぶっていて、飛鳥時代でも古墳は作られているものの、葬儀文化において大きな変化が起こっています。推古天皇の摂政として、十七条憲法・・・
奈良・平安時代のお墓や埋葬についてはあまり解明されていません。ただ、わかっているのは、奈良時代に入って、平城京(奈良の都)の内側に墓を作ることが禁止されたことです。ですから、平城京の内側には当時の墓は発見されていません。平安時代に入ってもこの基本方針は変わらなかったようで、天皇や貴族といった特権階級の墓であっても平城京の外に作られました。庶民の墓は飛鳥時代と同じく一定の場所が設けられていて、そこに埋葬するように定められていました・・・
鎌倉時代は、革新的な新仏教が一斉に起こった時代です。仏教は、それまでの主に貴族などの特権階級の信仰であったが、鎌倉時代になると、新興階級である武士、さらに庶民も信仰するようになります。解釈やニュアンスを変えて、より実生活や地域に根付いた仏教に進化発展し、後に鎌倉仏教と呼ばれるようになります。従来の貴族を対象とした経典の研究や鎮護国家の思想から、より個人の悟りや社会の救済を目指した信仰として深まります。鎌倉時代には、法然・親鸞・日蓮・栄西・道元・一遍・・・
江戸時代には再び土葬がメインになります。それには、江戸幕府の封建支配のために朱子学を重んじたことが原因と考えられます。江戸時代は、儒教の隆盛期であったことも知られています。江戸幕府は、儒教の教えを天下統治の普遍原理にして全国にくまなく徹底したことが知られています。江戸時代の封建制度は儒教の教えを中核にして形成されたものです。儒教を宗教としてではなく、考え方の規範や道徳として捉えたものを儒学と言いますが、その儒学の中の一派が朱子学・・・
明治維新によって生まれた新しい政府は、仏教の排斥とキリスト教の普及を目的として自葬祭の禁止を打ち出しました。しかし、土葬用の土地が足りなくなっったことや、火葬再開を望む声が多かったことで、火葬禁止令はわずか2年ほどで撤回されることになり、土葬と火葬が並行して行われるようになります。表向きには、神道の推奨も目的だったとされていますが、新体制を確立するために、天皇を中心とした支配体制を残す方が有効と考えての方針であったようです。この自葬祭禁止令によって、明治3年に全ての寺院墓地が国有地となり、家族が自分たちで葬儀を行うことさえも禁止されました。 葬儀は全て・・・
第2次世界大戦後の極東軍事裁判。いわゆる東京裁判では、太平洋戦争開戦時の首相であった東条英機元首相(1884年12月30日~1948年12月23日)ら7人のA級戦犯が死刑判決を受けましたが、遺骨は遺族に返還されず、どのように処理されたのか、長い間詳細は分かっていませんでした。日本大学の高沢弘明専任講師がアメリカの国立公文書館で入手した公文書は、死刑執行に立ち会った将校が記したもので、「遺体の火葬後、遺骨を横浜の東およそ30マイル(48㎞)の太平洋上空から広範囲に散骨した」などと具体的な経緯が書かれています。マッカーサーの命令を伝える書簡に書かれていたのは・・・
【葉山の谷戸へ山林散骨】
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