平安時代の歴史書『続日本後記』(巻第九)には、840年に崩御した淳和天皇(上皇)は生前から散骨を希望され、火葬した上で大原野の西山の山頂に散骨されたという記録が残っています。淳和天皇(上皇)の命により遺体は火葬された上、大原野の西山(京都府京都市西京区大原野南春日町)の山頂で散骨されたとなっています。
死を目前にした淳和天皇(在位823〜833年)は皇太子の恒貞親王に、「本来自分は飾り立てることを好まない。人や物に迷惑をかけたり、無駄をしたくない。葬儀に関する準備は全て簡素とすべきである」と述べ、「人は死ぬと霊は天に戻り、空虚となった墳墓には鬼が住みつき、遂には祟りをなし、長く災いを残すことになると聞いている。死後は骨を砕いて粉にし、山中に散布すべきである」と命じたそうです。
淳和天皇が散骨を希望された理由は何だったのでしょう?それは、一般民衆のためのものでした。当時、葬送の儀式は、権力者の力が大きくなればなるほど盛大に行われ、それにかかる費用と年月は、民衆の生活を圧迫し、苦しめるものになっていました。そこで大化2年(646)に出された大化の薄葬令は、貴族や豪族に対して、膨大な費用と労力をかけて行う葬儀を簡略化し、民衆の窮状を救うことが目的だったのです。淳和天皇は、「骨を砕き粉となし之を山中に散らせ」と遺詔し、没後は近臣によって遺言通りに火葬をし、遺骨を粉砕して西嶺上山中に散骨されたとのことです。淳和天皇(786-840、享年55歳)は、長岡京を築いた桓武天皇の第3皇子で、母は藤原百川の娘旅子です。兄の嵯峨天皇の後を継いで皇位を継承しました。
もっとも、日本で初めて散骨されたのが淳和天皇であるというわけではありません。同じ『続日本後紀 巻第九』の中には、淳和天皇の近臣である中納言藤原吉野が、散骨を思いとどまってもらうように諫めた記録も残っており、そこには「親王以下であれば散骨の例もあるが帝王に関してはそのようなことは聞いたことはなく山稜を築くべきだ」といった趣旨で説得を試みたようです。つまり藤原吉野の進言では、親王以下の位のものや庶民であれば散骨も行われてきたことが前提となっており、天皇はともかく一般に散骨を行うことがさほど珍しくなかったことをうかがわせるのです。
これには「大化の薄葬令」の影響があったとも考えられます。『日本書紀』によると、大化2年(646年)に「薄葬令〈はくそうれい〉」が発せられました。 中国の葬制令に倣い、身分ごとに墓の規模や人員などを細かく規定したものです。 これが古墳造りをやめる引金になったと考えられています。その後、墳陵は小型簡素化され、前方後円墳の造営がなくなり、古墳時代は事実上終わりを告げることになります。
京都市右京区の小塩山山頂(標高642m)にある「大原野西嶺上陵」は淳和天皇を祀る古墳として、宮内庁管轄となっています。また麓には淳和天皇を火葬したと伝えられる「淳和天皇火葬塚」や、淳和天皇の柩車を納めたという伝承の残る「車塚」などの古墳が点在します。火葬塚は京都府向日市にあります。また山陵がある小塩山の東方のふもとに「灰方町(はいがたちょう)」という町名が存在していますが、これは淳和天皇の散骨の際、遺灰が飛んで行った方向に由来しています。
・大原野西嶺上陵(京都市西京区大原野南春日町)
到達難易度が最難関の天皇陵です。舗装された林道がありますが、電波塔に勤務する人専用のもので、林道入口にはゲートがあり、一般車は進入できませんから、標高642mの小塩山山頂まで登山道を歩く必要があります。小塩山東側の大原野からのコースがハイキングコースになっていますが、登山口から山頂までの標高差は最も大きく550mあります。 |