奈良・平安時代のお墓や埋葬についてはあまり解明されていません。ただ、わかっているのは、奈良時代に入って、平城京(奈良の都)の内側に墓を作ることが禁止されたことです。ですから、平城京の内側には当時の墓は発見されていません。平安時代に入ってもこの基本方針は変わらなかったようで、天皇や貴族といった特権階級の墓であっても平城京の外に作られました。庶民の墓は飛鳥時代と同じく一定の場所が設けられていて、そこに埋葬するように定められていました。『梧庵漫記』には、「京の周辺の山野や河原が庶民の葬られる場所だった」という記述が残されています。
奈良の都には、8代に渡って天皇が在位していましたが、その後、794年に桓武天皇は都を平安京(京の都)に移し、奈良から京都に中心が移り、平安時代となります。平安時代には、高野山に火葬した骨や遺髪を納めるという「高野納骨」が盛んに行われました。1085年に崩御した性信法親王は遺骨を、1108年の堀河天皇は遺髪を高野山に納めました。終末思想に近い「末法の世」とされていたこの時代、天皇や貴族などの特権階級は、弥勒の浄土である高野山に納骨されることを願っていたようです。高野山は和歌山県に現存していますが、関西エリアが広く発展したことがわかります。仏教の広まりとともに仏教思想に基づく葬法として、近畿地方を中心に火葬の風習が広がっていった時代です。
日本の仏教の歴史のなかで、平安時代には、国家的な保護を受け、貴族が信仰する宗教として仏教が発展しました。空海による真言宗や最澄による天台宗などの平安仏教はとても発展しました。
この時代の火葬墓の発見は非常にまれです。神奈川県内で火葬墓は旧武蔵国の一部である横浜・川崎地域を中心に発見されています。火葬されて丁寧に埋葬されているのは、一握りの権力者やその家族だろうと推測されています。この時代の火葬墓は、土坑に火葬骨を納めた土器を納めています。発見された火葬骨臓器の多くが土師器の甕を利用していますが、須恵器の壺が使われた例もあります。また、土師器や須恵器の坏が蓋として転用されていることもあります。集落に住む多くの人たちがどのように埋葬されたかは、謎につつまれています。 |