鎌倉時代から広まりを見せた火葬文化ですが、江戸時代には再び土葬がメインになります。それには、江戸幕府の封建支配のために朱子学を重んじたことが原因と考えられます。江戸時代は、儒教の隆盛期であったことも知られています。江戸幕府は、儒教の教えを天下統治の普遍原理にして全国にくまなく徹底したことが知られています。江戸時代の封建制度は儒教の教えを中核にして形成されたものです。儒教を宗教としてではなく、考え方の規範や道徳として捉えたものを儒学と言いますが、その儒学の中の一派が朱子学です。江戸時代の初期には、朱子学者の林羅山が徳川家康に仕え、それ以来、林家が大学頭に任ぜられ、幕府の文教政策を統制しました。要するに政府のご意見番です。それまでの時代には、教養はもっぱら仏教の僧侶によってもたらされてきましたが、こうして幕府主導による封建支配が完成していきます。儒教では、遺体は土に埋めて土葬するのが習わしです。
火葬は、それまでの時代においても、高貴な人たちを中心に行われていました。費用もかかりますし、火葬の際に出る煙や臭いも周囲に影響を与えます。江戸時代初期1600年頃の人口は1200万人だったものが、明治に近い江戸時代後半には3000万人にまで増加したと推定されています。そして、江戸時代は、道にゴミ一つ落ちていなかったといいますが、一般民衆の精神性が高く、日本を訪れた外国人は、その民度の高さに驚いて多くの書物に日本人の素晴らしさを記述しました。戦国時代に多発した合戦のために、野山には死体が転がっており、それを丁重に弔うのにその場にそのまま埋めたと考えるのが妥当ではないでしょうか。当時の埋葬方法は、土饅頭と呼ばれています。これは、死装束に身を包んだご遺体を棺桶に納めて土に埋め、その上におまんじゅうのように土を盛り上げたことが由来です。卒塔婆や墓石がみられるようになったのも、この頃のことです。
江戸時代の前の戦国時代当時、キリスト教は、想像以上に普及していました。キリシタン大名の追放が始まった慶長19(1614)年の時点ですが、日本人のキリスト信徒の数は少なく見積もっても20万、多い場合は50万人ほどいたと見られています。当時の日本の人口は1200万人ですから、人口の2〜4%がキリスト教徒だったことになります。
徳川家康は、当初キリスト教の布教に寛容でしたが、キリスト教徒によって日本の朱印船の乗組員たちが殺害されたり、肥前日野江藩(長崎県)主の有馬晴信とキリスト教徒による贈収賄事件が発覚したりしたことで、家康はキリスト教を禁制することになっていきます。1635年には、江戸幕府の政策によって檀家制度が始まります。西欧からの侵略と封建社会の秩序を乱す可能性があると判断し、キリスト教を弾圧する目的で、すべての人は、必ずどこかのお寺に属することを強制したものです。寺は墓を管理しますから、それぞれの家族構成を把握でき、現在の市区町村役場のような役割を担っていました。
鎖国によって、日本独自の文化が花開き、高い精神文明によって秩序が保たれていた素晴らしい時代は、その後、終焉を迎えます。黒船が来航し、開国を迫られ、欧米から資金と武器を援助してもらった薩長の武士たちは、江戸幕府に対し反乱を起こし、素晴らしい時代は幕を閉じ、日本独自の高い精神性は失われ、欧米の価値観を押し付けられるようになっていきます。
【葉山の谷戸へ山林散骨】
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