葬式や年忌法要などの儀式が、死人を幸せにするという考えは、世の常識になっているようです。お釈迦様の弟子がお釈迦様に質問したくだりがあります。「死人のまわりで有難い経文を唱えると善い所へ生まれ変わるというのは本当でしょうか?」釈迦は黙って小石を拾って、池に投げ、沈んでいった石を指さして言った。「あの池のまわりを、石よ浮かびあがれ、浮かびあがれ、と唱えながら回れば、石が浮いてくると思うか?石は自身の重さで沈んでいったのであり、そんなことで石が浮かぶはずがなかろう。」 つまり、人は自身の行為(業力)によって死後の報いが定まるのだから、他人がどんな経文を読もうとも死人の果報が変わるわけがない、と説かれています。お釈迦様は、死者のための葬式や仏事を執行されたことは一度もなかったと言われています。ですから、読経で死者が救われるという考えは、本来、仏教になかった考えなのです。
鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書『歎異抄』には、浄土真宗を開いた親鸞聖人の場面が登場します。「親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず」(歎異抄第五章)・・・現代語訳するとこうなります。「親鸞は亡き父母を喜ばせるために、念仏を称えたり読経や法要、その他一切の仏事をしたことは、一度もない」
「死者の一番のご馳走は読経だ」などと言って、先祖供養を行っているお坊さんが多いのは、いかがなものでしょうか?
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