骨に魂が宿っているという考え方も、決して間違いだと言い切れません。
何故なら、神道では、あらゆるものに魂があり、あらゆるものが神であると考えるからです。「八百万の神」とは、日本に古代から伝わる考え方のこと。あらゆる現象や、太陽、月、風、家のなかの便所に至るまで世の中に存在するすべての物に神が宿っていると考えてきました。さらに、もっと原始的な民間信仰の中には「付喪神」という神も存在します。「付喪神」とは、長く使った道具にも精霊が宿るという考え方のことです。この精霊は、「長く使った道具」であることから考えると人の想いが生み出したものだと考えられます。物質にも、人の想いが宿るわけですから、長い間使ってきた身体の中心にあった骨にも、生前の想いが宿っていると考えることは決して不思議なことではありません。
量子物理学は、最先端の波動研究のことですが、この物理学では、物質の最小単位は分子や原子ではなく、さらに小さい「素粒子」であることが明かされました。素粒子は微弱ながら絶えず振動しています。その振動を「波動」と呼び、全ての物質や世の中の現象はこの波動によって生み出されていると考えられるようになりました。スピリチュアルと物理学は対極の関係にあるようにも感じますが、スピリチュアルの不思議な現象も、最先端の物理学で解明される時代が始まっていることになります。
量子物理学では、研究者が物質をどんどん細かくしていく段階で、徐々に人間の目では確認できないくらい細かいレベルになります。ですから、機械を使って、その物質の大きさを測定していくわけですが、最後の最後には不思議な場面が訪れます。機械の測定者の思いが、機械のデータに影響を与える段階が訪れます。測定者が「さすがにもうないだろう」と考えれば、機械に波形は表れません。しかし、「まだあるだろう」と思えば、機械には波形が表れます。つまり、あると思えばそこにありますし、ないと思えばないというわけです。その物質そのものではなくて、第3者の意識がそこに投影されるということになります。
ですから、故人の遺骨には魂があると思えば、実際に魂は存在することになりますし、ないと思えば、そこに魂は存在しないということになります。死後の世界があると思えば、死後の世界は存在することになりますし、ないと思えば、死後の世界はありません。事実はひとつであって、正しい答えはひとつであるに違いないと考えてしまう私には、答えがひとつでないということに苛立ちさえ感じますが、それは教育という名の洗脳の賜物なのか、3次元に存在している愚かな自分の証明なのかもしれません。
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